恵比寿と共に歩む

江戸時代以前
もともと今の恵比寿の辺りは渋谷川と三田用水に挟まれた農村地帯で、下渋谷村と呼ばれていました。
大名の下屋敷が点在し、その中に宇和島藩主伊達氏の屋敷もあったことから、現在でも「伊達坂上」「伊達坂」といった地名として残っています。
江戸時代以前
1889(明治22)年に日本麦酒醸造会社(現サッポロビールの前身)がレンガ造りのビール専用醸造場をこの地に建設し、翌年「恵比寿ビール」を発売したことから、本格的にこの地域の発展が始まります。
1901(明治34)年にはビール積み出し用の貨物駅「ゑびす停留所」が造られ、翌年には「ゑびす駅」と呼ばれる旅客駅も開設されました。1928(昭和3)年には、それまで「伊達跡」と呼ばれていた辺り(駅の東側から白金に向かうバス通り沿い)が「恵比寿通り1・2丁目」と改称され、地名にも恵比寿の名が使われるように。恵比寿の呼び名は、「恵比寿ビール」から来ているのです。
江戸時代以前
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月には恵比寿も大規模な空襲に遭い、大きな被害を受けました。戦後、地元の土地所有者達の手で区画整理が行われるなどして、次第に復興していきます。恵比寿神社が現在の場所に遷座されたのも、この頃です。1964(昭和39)年には地下鉄日比谷線が乗り入れ、さらに利便性が向上。また1975(昭和50)年には地元の人たちの手によって駅前に恵比寿像が建立され、街のシンボルになっていきました。
江戸時代以前
恵比寿の街が大きく変貌を遂げるきっかけとなったのが、地域の再開発に伴うサッポロビール恵比寿工場の移転です。1988(昭和63)年に恵比寿工場は千葉県船橋市へ移転し、その跡地は1994(平成6)年に恵比寿ガーデンプレイスとして生まれ変わりました。こうして、街のシンボル的な存在が誕生します。また1997(平成9)年にはアトレ恵比寿もオープンし、駅周辺はさらに活性化していきます。ビジネスにもショッピングにも最適の洗練された街として、「住みたい街」トップにランクされる街として、全国的にも名を知られるエリアに発展していくのです。

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